聖園女学院と東京純心の感受性
文章を読んだり、他者の話を聴いたりしたとき、自分なりの考え方や感じ方を持つには、
豊かな感受性が必要。気づきや発見は、そこから生まれる。
聖園女学院の中2で、哲学者の池田晶子さんの文章や精神科医の香山リカさんの文章などを「複数」読んでから、「自分とは何か」について考え、書く授業があったようだ。
同じテーマで作者が違う文章を読むということは、視点のズレに気づくということを意味するだろう。考え方や価値観の違いに気づき、どのようにそれらを受け入れるのか。
思春期に遭遇している同学院の生徒たちは、繊細な感性や豊かな感受性で、それらを受けとめている新しい自分を見出すことになる。
聖園女学院中2 N・Nさん
「自分とは誰か」について、私はもしかしたら心の中の心のことではないかと思う。ただの心の中ではなく、そのさらに奥にある心だ。普段生活していると、人間関係やいろいろなことがあって、周りに気を遣ったり、自分を周りに合わせようとしたり、無理をしてみたり……。本当の自分である時間は、実はとても少ないのではないかと思う。だから、本当の自分でも普段は気が付かないような、心の中の心だと考えた。
私は「自分とは誰か」について、「心の中の心」と答えたが、実際、「自分は誰か」についての根拠のあるような納得できる答えは分からない。しかし、「分からない」ことは答えではなく「問い」であると言われて、また困ってしまうのだ。だから、この「分からない」をこのままにしておかずに、どこまでも考えていこうと思う。
東京純心の毎日は、シスターや先生方のお話がある朝礼から始まる。そして、生徒たちは5分間ほど集中して聴き、自分の気づいたことを書く。
この「聴く→集中→気づく→書く→先生のコメント」という循環は終礼のときも、総合学習のときも多様な行事のときもほぼ同じ。
毎日のこの丁寧なサイクルが6年間連続していく。どれほど知と心が統合的に発達するのかは、火を見るより明らかである。
東京純心中2 N・Kさん
(4月24日)
今日から、聖歌が、校歌から「ガリラヤの風かおる丘で」に変わりました。「シャローム」とは、神様の平和がありますようにという意味です。聖書は、神様からの手紙であり、まなざしでもあります。言葉とは、今日のお話を聞いて、とっても大切な事だと思いました。それと、言葉というものは、人の心をはげましたりできるので、すごいと思いました。(5月30日)
先生が読んだ本の中からお話がありました。「雑用はたいしたことのないもの」と思っているかもしれないけれど、小さな私たちの価値観で、決めてしまっては、とても視野が狭くなってしまいます。今はまだ、大事なのか、そうでないのかよく分からないのだから、積極的に色々な仕事に取り組んでいきたいと思います。
[初出:NettyLandかわら版11月号]
(本間勇人)
| 固定リンク

